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【世事関心】425事件 中南海への陳情の真実(下)

2011年07月01日

 

歴史の還元 4.25中南海陳情事件
 
真相を伝えるために 1万人が陳情に
 
天津での事件は瞬く間に全国に伝わりました。そして、法輪功学習者は4月25日に、中央へ陳情することを決めます。その数は、1万人に達しました。大規模な陳情に、国内外のメディアも驚きました。4.25事件は、こうして幕を開けました。はたから見ると、彼らの考え方は単純すぎて、政治の複雑さを分かっていなかったかのようです。では、実際はどうだったのでしょうか?
 
生死を放下し、君子は正々堂々
 
過去60年、歴史の波に翻弄され続けた中国人。かつての度重なる政治運動において、善悪の基準も物事の是非も徹底的に破壊され、中国には数え切れない悲劇が生まれました。しかしここには、強権の言いなりにはならずに、固い信念を持って、政府に真実を告げにきた人々がいました。数々の政治運動では、多くの冤罪が生まれました。これに対する民衆の不満を鎮めようと、文化大革命後に、当局が設けたのが陳情制度です。個人または集団の陳情は、憲法と法律の保護を受け、しかも警察へ申請したり、許可をとったりする必要もありません。
 
秩序整然 静かで穏やか
 
4月25日、1万名もの法輪功の学習者が国家陳情局近くの府右街(ふようがい)に集結。しかし、静かで整然としていたため、治安維持の警官も暇をもてあまし、おしゃべりを始めます。中南海(ちゅうなんかい)の正門は、長安街(ちょうあんがい)の新華門(しんかもん)に面しています。実際、当日、長安街には陳情する人の姿はありませんでした。人々は府右街と…西安門(せいあんもん)通りにいたのです。
中国国営テレビ、中央テレビのニュースや現場の写真が示すように、法輪功学習者の背後は、中南海特有の赤い塀(へい)ではありません。学習者のいたちょうど向かい側こそが、中南海でした。中南海には陳情者の姿がありません。中央テレビのニュースからも、陳情者によくある興奮している人や過激なスローガン、横断幕などは見られません。陳情者が中南海を「包囲」して警察との間で「衝突事件」が起こったという中国政府の言い分は、矛盾に満ちていることが分かります。
 
1万人もの陳情者がいながら、小競り合いすら起こらないのは世界的にもまれです。この平和的な陳情は、国際的にも高い評価を受けました。しかし、この評価が逆に当局の屈折した感情を招きます。
 
「中南海包囲」は作り話
 
これは、後に放送された中央テレビの映像です。この映像からは、公安省が事態のエスカレートを望んでいたことが分かります。陳情のあった当時、現場には前もって監視カメラが設置され、陳情者全員の様子が撮影されました。違法行為があれば、その場で措置を取るつもりだったのでしょう。当初、陳情者は陳情所のある府右街(ふようがい)の近くに集まっていましたが、武装警官は「ここは安全ではない」などと言って、彼らを他の場所に誘導します。この誘導の下、陳情者は知らないうちに二つの列に分かれて並びました。こうして、南北に約2キロの府右街には、陳情者の長蛇の列ができたのです。その2つの列は警察の指揮の下、ちょうど中南海の西門でぶつかります。報道によると、陳情者は1万名を超えたそうです。
 
当日、朱鎔基(しゅ ようき)首相は、法輪功学習者の代表と面会。代表の要求は3点でした。まずは、天津で逮捕された学習者の釈放。第二は、学習者らに自由な修煉環境を与えること。第三は、法輪功の書籍の出版を許可すること。朱鎔基首相はすぐ天津へ釈放を命じ、「国は人々の煉功に干渉しない」とも述べました。双方が会談していた時も、1万名もの陳情者は外で静かに待っていました。
 
会談は夜8時過ぎに終了。天津で学習者が釈放されたと聞いた人々は、その場から波を引くように去っていきました。人々は去る際、身の回りのごみを拾い、警官の捨てたたばこの吸殻さえ片付けたそうです。
 
一部の指導者は、集団陳情が衝突に発展することを望んでいましたが、法輪功学習者の強い自制心と忍耐力がそれを防ぎました。そのほか、集団陳情がその日のうちに平和的に解決したことは、共産党政権の樹立以来、画期的なことでした。これまでは武力など力ずくで問題を解決していたからです。国際メディアも、これに対し高く評価します。この事件から中国社会に希望を見出した人も多くいました。しかし、事件はこれで終わりませんでした。この件は当時のトップ―江沢民の激しい怒りを招いたからです。
 
黒雲が押し寄せ 暴風雨が来臨
 
4月25日の夜、江沢民は独断で政治局の全員に書簡を記しました。書簡にはこう書かれていたそうです。「我ら共産党のマルクス主義理論、唯物論(ゆいぶつろん)、無神論が、法輪功の喧伝(けんでん)する、あれっぽっちのものに勝てないのか。もしそうなら、笑い話にもならない!」この書簡は後に、中央弁公庁(べんこうちょう)によって内部通知として配布され、注意書きまで添えられました。「学習してとことんやりぬく。意見または議論は求めない」
 
アメリカのテレビCNNの中国問題専門家・ウィリー・リン氏は「中国は弾圧で高い代価を払う」と題した文章の中で、「一部の政治局委員が江沢民の弾圧を支持しなかったことは、公然の秘密である」と指摘。さらに、昔からのある共産党員の話も引用しました。「江沢民の狙いは、運動を通じ自分へ忠誠を誓わせ、自身の権威を高めること。政治局が法輪功問題において、たとえ一枚岩でなくとも、公に自分を支持することを望んだ」
 
この政治目的の達成のため、6月7日、江沢民は再び政治局会議で講話を発表。中弁(ちゅうべん)発電[1999]30号「中共中央弁公庁の『江沢民同志の中央政治局会議での法輪功問題処理と解決に関する講話』の通知」。通知にはこうあります。「わが党は…250万の軍隊を有し、6000万余りの党員に大勢の指導者や幹部がいるのに、なぜ法輪功のような問題が現れるのか」
 
このように、確固たる証拠もないまま、江沢民は法輪功を「背後に海外の敵対勢力」がある「危険」な「政治団体」と決めつけました。その決定に賛同できない人も、「党を滅ぼす」責任は避けたいと、みな口を閉ざしてしまいます。その上、法輪功に対する迫害の決定も特別な意義を持ちます。もし、江沢民の決断によって「危機一髪で党を救った」ことになると、江沢民の権威は間違いなく上がります。江沢民は3ヵ月で法輪功を根絶できると信じていました。数十年来の政治運動で培った、他人を陥れる手段で人を苦しめることは朝飯前だからです。リスクの全くない今回の迫害が成功すれば、党内での自分の地位はゆるがせないものになると江沢民は計算していました。
 
耳を覆って鈴を盗み 暗闇では刀が光る
 
4月27日、国務院陳情事務局は新華社に対し談話を発表。「各種の煉功活動を、政府は禁止したことはない。異なる見方や意見は許される」つまり当局自らが、4.25集団陳情は合法だと認めたのです。2ヶ月後の6月14日、中央陳情弁公室(べんこうしつ)と国務院陳情事務局は、全国の新聞、ラジオ、テレビで、「いかなる功派も禁止したことがない」との声明を発表。
 
奇妙なのはこの時、党の内部では江沢民から「法輪功禁止令」が下されていました。実際、5月下旬から、法輪功の煉功が警察や当局から妨害を受ける事件が続発していました。警察による放水を使った排除や大音響のスピーカーでの妨害がありました。各地の煉功点の責任者たちは取調べ、監視、尾行、盗聴などに遭ったほか、移動を制限されることもありました。
 
1999年6月10日、すなわち江沢民が中央政治局会議での談話を出した3日後、共産党中央は「法輪功問題処理指導チーム」を立ち上げ、李嵐清(り らんせい)が責任者、羅乾(らかん)、丁関根(ていかんこん)が副責任者となりました。所属機関は最高裁判所、最高検察院、公安省、国家安全省、中央宣伝部、外交省などの党と政府の各部門。中央から地方の末端にまで同組織がつくられ、その創設日から「610弁公室」とも呼ばれるようになりました。
 
渦巻く荒波は天を覆う
 
経済発展と反比例するように、道徳が崩壊の一途をたどる中国。それはやがて社会のすみずみにまで、影響をもたらすことになります。例えば、風俗産業の氾濫、乱開発や環境汚染、毒入り製品の横行……。さらには、人々の間の信頼さえ失なわれ、人は互いに無関心になっています。経済がいかに発展しても、モラルが崩壊した社会では希望を見出せません。良い人になる、真実を話す、信用を守る、そんな人は損をします。そんな中、現れたのが法輪功でした。
 
97年の冬、中国・遼寧省の大連で開かれた「大連法輪大法交流会」。ある4歳の子が読み上げた「失と得」に関する道理は、まさに法輪功学習者が毎日実践していることです。心身の健康に驚異的な変化をもたらす法輪功。これは、老若男女を問わず人々を引き付け、中には博士や修士を持つ科学者、エンジニア、弁護士、医師、学者などのエリートもいれば、宗教や修煉界で長年修業してきた賢者もいました。
 
4月25日の中南海・陳情事件。法輪功の人々は、どんな問題に対しても、平和的理性的に対処するということを、自らの行動で証明しました。一方、江沢民は7月19日、会議で法輪功迫害の案を強行に通したそうです。そして翌日の20日から、法輪功学習者の一斉逮捕が始まります。かつての残酷な政治運動を知る人々は、「法輪功はせいぜい3ヶ月しかもたない」とささやきました。
 
しかし、「真・善・忍」を修めていた法輪功の人々は、厳しい弾圧を前にしてもひるみませんでした。これこそがわずか数年間で、1億もの人が法輪功に引き付けられた理由かもしれません。
 
「濁世(だくせい)に清蓮(せいれん) 億万の梅 寒風に姿 さらに青翆(せいすい)なり」。これは李洪志氏が2003年に書き下ろした『洪吟』の中の『梅』に書かれた一句です。酷寒の中でも忍耐強く咲き誇る梅の花に、法輪功学習者の姿を重ね合わせたのでしょう。歴史に刻まれた「4.25中南海陳情事件」。この事件にふさわしい言葉、それは何よりも「正々堂々」かもしれません。
 
99年4月25日の中南海・陳情事件。これは後の迫害の引き金となり、法輪功迫害の口実にもなりましたが、江沢民が法輪功を根絶しようとした真の原因は、自らの権力の維持と異常な嫉妬心だったといわれます。一方、法輪功の「真・善・忍」は共産党の闇を浮き彫りにしたため、当局は到底受け入れられなかったと指摘されます。こうして最終的に、共産党と江沢民は法輪功弾圧で足並みをそろえました。

 

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